マルチニックの少年 (1983)RUE CASES NEGRES/SUGAR CANE ALLEY
   106分 仏
監督: ユーザン・パルシ Euzhan Palcy  白く渇いた季節
原作: ジョゼフ・ゾベル  Joseph Zobel
脚本: ユーザン・パルシー Euzhan Palcy 
撮影: ドミニク・シャピュイ Dominique Chapuis 
音楽: マラボア  Malavoi
◎1930年のマルチニック島の貧しい黒人の少年が祖母の助けを得て上の学校へ進む。
日本では昭和初期、似たような貧困層が山ほどいたと思う。
二人の苦労は想像を絶するものがある。


1930年8月、仏領マルチニック島、「塩の河」、大人たちは低賃金でサトウキビ畑で働いている。
子どもたちは貧しくても働くことはなく夏休みを楽しく過ごしている。


日が暮れてから大人たちは帰ってくる。
ジョゼの祖母ママティン(ダーリン・レジティム Darling Legitimus)はタバコが唯一の楽しみだ。


給料日には、安い賃金だと悪態をつきながら8フランから22フランをもらう。
祖母は11フラン、後ろの老人メドゥーズ(Douta Seckドゥタ・セック)は10フランだ。


老人のメドゥーズは一人暮らしで、しかもこんな年寄りで働かないと生きていけない。
アフリカの話や若い頃父親が白人の町を襲い、奴隷解放のきっかけになった話、しかし解放されても土地はペケのもの暮らしは奴隷だとジョゼに語る。
(ペケとはフランス人の土地所有者のこと)


ある日ツケで酒を買った子どもたちが火事を起こしてしまう。
その結果畑で働かされることとなるが祖母は「子どもを働かせるのは恥知らずの黒人だ」と言ってジョゼを決して働かせない。


夏休みも終わり、村の子どもたちは町の学校へ通う。
ペケと現地人の混血児レオポルド(ローラン=サン・シール Laurent Saint-Cyr)は聡明でジョゼの友達だ。
(驚いたのは村の子どもたちがちゃんと学校へ行っていること。これはフランスの政策なんだろうか。
昭和初期と言えば日本の子どもたちも義務教育があったとは思うが、全員行けてはいない。)


祖母はジョゼのために仕事をみつけるが、登校時間が来ても働かされ遅刻する。
その度に立たされる彼は皿を割ってその仕事をおじゃんにするのだった。
(彼をやとった女の人は悪い人ではなさそうだったが・・・)


ある晩ひっそりとメドゥーズが死んでいた。畑が年寄りを食った。
老人は骨と皮を畑に棄てに行ったのだと村のみんなは言う。
(半分歌にして彼の弔いをするが、その言葉はブラックユーモアに満ち満ちている)


ある日事情を知った祖母はジェゼに町で住む家を探してあげ、夜出発する。
「お前の食い分は私が稼ぐ。もう一度ペケの畑で働くよ」
(気骨のあるおばあさんだ。この人ありてこそか)


ある日学校から帰ると祖母が倒れてベッドで寝ている。
大きくなったら面倒をみるよ、と言うジョゼ。


祖母も涙ぐむのだった。


レオポルドの父が馬に蹴られて重傷を負う事故が起きた。
混血児に白人の名前は継がせられない、と言う言葉を聞いてレオポルドは家を飛び出す。
そして父が死んでも戻らなかった。


町の学校を卒業したジョゼは担任の薦めでフォール市の奨学生資格試験を受けて合格するが、学校へ行ってみると奨学金は学費の4分の1,寮にも入れなかった。
87フラン50の授業料!住む所もなく村の出身者で町で働いているカルメンを訪ねると、近くにいた女性が港の空き倉庫を教えてくれる。
そこで祖母は洗濯をしながらジョゼの面倒を見るのだった。


ある日授業でさとうきび畑で働く村の人たちの事を書いたジョゼの文章を読み上げた教師が、あまりの素晴らしさに盗作だと言う。
激しく否定して教室を飛び出すジョゼ。


その後その教師は家まで謝りに来、しかも奨学金全額支給の手配までしてくれた。
(教師が謝って誤解が解けた時、ジョゼは飛び上がって喜び祖母が驚くほどだった)


働かないでいい・・・祖母は実はもうクタクタだったつぶやく。


新しい制服を仕立屋に頼むため村に戻った祖母が帰らないので行ってみると横になっていた。


騒ぎがするので行ってみるとペケの不正な黒人搾取の証拠となる帳簿を盗んで捕まったレオポルドが連行される所だった。
村人たちは歌って彼を送る。


ジョゼが名前を叫ぶと振り向くレオポルドだった。


使いの女の子が来て帰ると祖母は亡くなっていた。


祖母の手を洗い足を丁寧に洗うジョゼ。
「祖母はメドゥーズのアフリカへ旅立った。
心に”黒人街”を抱いて
明日 僕はフォール市へ向かう」

◎この祖母の苦労を思うと、私たちの母や祖母の世代の苦労と重なって胸が熱くなる。
教育は何故貧困の中でこそより輝くのだろう。


29才の時の作品。