メイ・サートン(May Sarton)(1912-1995)の「今かくあれども」(As we are now)は1973年ニューヨークで出版された。61才の時の著書になる。彼女はレズビアンの経験があるらしい。




40年間高校で数学の教師をしていたカーロは、心臓発作を起こしたため兄夫婦の家に同居する。が、兄の若い妻と折り合いが悪く、ニューイングランドの辺鄙な場所の(考え方をかえればのどかな)泥の中に沈みつつあるような個人経営の「nursing home ナーシング・ホーム」に移される。この時76才。このホームでは彼女だけが知識階級に属するため、経営者のハリエットあるいは自身との軋轢で神経を摩耗させていく。カーロは教育のない者、あるいは労働者階級に対して不遜な態度を取る。これが相手との軋轢を生み、結局は自分を苦しめる。当人もわかっているのだがどうしようもない性格なのだ。多分これは作者自身の性格でもあろう。このホームには個室に男性が一人、あと大部屋に何人かの動物のような男たちがいるのだが、個室にいるスタンディッシュを除いては、彼らに関する表現はあまりない。他の作家だったら彼らに対してもっと綿密な表現をし、状況の事実を語り尽くすだろう。
訳本の腰巻きにはカーロの人生最後の反逆が始まる、と書いてあるがこれはである。彼女の頭の中の希望の行為にすぎない(少なくとも小説の終わりまでは)。訳者によるあとがきをまず読むべきである。それによると、ホームの入居者は、財産管理が出来ない、自分の衣服を着られない、手紙を開封される、あるいは投函受け取りが出来ない、薬を強制投与される、電話を自由にかけられない、まさに老人の監獄である。カーロは個室を与えられているが、状況は同じだ。ネコのパンジーが夜ベッドに来ると彼女はその暖かさに触れて涙を流すのだが、そのネコもハリエットによって閉め出されてしまう。愛するものから遠ざかっていくと、しだいに精神を麻痺させていく。これは人ごとではない。日本でも施設に入ると急激に精神と肉体が萎えていくと聞いたことがある。明日の我が身かも知れない。もっとも私は施設を選ばず海を選ぶつもりだが。
このアメリカの「ナーシング・ホーム」のサービス劣悪、入居者虐待は1960年代後半、介護需要が急増したことから始まるという。これからすぐの日本と同じか。結局政府のてこ入れで改善されたのは1990年ちょっと前からになっている。なんと25年もかかっている。アメリカがこうだと緩慢怠慢の日本はどうなるのだろう。
ところで英語タイトルの weはなぜweなのか、原文を読まないとわからない。ただアメリカの作品紹介の一部で想像できる。日本語タイトルは・・・・。



Caro is able to survive by keeping a secret diary for observations, reflections, and interpretations; ultimately, this alone sustains her. While the voice is that of an elderly woman (as we are now), the journal is for us, those still able to manage their lives, but unable to predict or control end-of-life events.

訳本で読んだ。訳は武田尚子氏、進むほど訳がうまくなります。


  (関係ないけど Standing Hana)